人が怖い、人が憎い。なのに

先日、福祉事務所に紹介された心理相談員と話す機会があったのですが、発達障害者の投薬体験についての参考資料として、「借金玉」氏のブログ記事(のコピー)を渡されるという珍事がありました。

そんなことは置いといてタイトルテーマです。
「人が怖い、人が憎い。なのに」
私は基本的にいつも怯えています。他人は何時でも私のことを忌み嫌って攻撃してくるものだと思っているので、見知らぬ人を見るだけで常に緊張してしまいます。
私自身が、人から好かれるような人間になる努力を怠っているという理由もあると思いますが、毎日のようにすれ違う他人からジロジロと睨まれたり、或いは目を背けられたり、時に罵声を浴びせられたり、というのは辛いものです。

人間は心の弱さに敏感なので、そういう弱い人に対して容赦しません。道を歩いていても押し退けられ、態度は傲慢になり、悪意ある視線を送ります。
そういったことがある度に私は傷付き、憎しみを心の中に蓄えた結果、私自身が他人を睨み付け押し退ける人間になってしまいました。
攻撃は最大の防御と言いますが、心の弱さの顕れとして他人への攻撃性を身に付けていくのだと思います。

退屈で仕方無い私は度々パチンコ店に行っています。当然のように誰とも関わりません。退屈だから行くだけで、お金を増したいわけではありません。なので研究もしませんし、極稀に勝ったところで使い道が無いので、やはりパチンコ、パチスロ、競馬等に注ぎ込み、ただひたすらお金と時間を消耗しています。

退屈な日々の中で、ふと人恋しくなるときがあります。私は恋人や親しい友人はおろか、家族すらいません。一度も居たことが無かったと言えば、恐らく嘘になりますが、私は何もかも失ってきました。
酒、煙草、ギャンブル等あらゆる依存を抱え、まともな社会生活とは程遠い日々を送る私が今辛うじて「仕事」を続けられているのは、一重に退屈や孤独感の埋め合わせなのだと思います。


纏まりのないままですが、疲れたので筆を置きます。「なのに…」の後に続く言葉は想像にお任せします。

ブログを始めたのに書くことが無いのは何故か

さて、タイトルの通りである。
Twitterを凍結されてから、日々呟きたいことは浮かぶのに、書く場所がない。
しかしブログに書こうと思っても、とりとめがない話ばかりだし、何よりまだはてなブログの使い方も慣れていない。
先日投稿した文章を読み返してみたが、あまりに稚拙で頭が悪そうな内容に我ながら頭を抱えてしまい、また文章を書こうという気力がなかなか湧かないというのもある。

今私は職場のトイレに篭り、スマホからポチポチとこれを打っている訳だが、最近のことを話そうにも、どんな音楽を聴いたとか、テレビを見た感想とか、そんなものしか殆ど浮かばないのだ。
そもそも現在、このブログ自体に読者というのが存在してないようなので、どこに向けて書くのかもはっきりしない。
遺書ブログと名乗ってはいるが、遺したい言葉など実際は無いのかも知れない。

「まさおの夢」という歌がある。
概要や歌詞はこのブログ記事( http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/133420/63100/13142283 )に詳しいので読んでもらえばいいのだが、
この歌を聴くと何処か身につまされるような所を感じる。
ヒトから生まれた「まさお」はヒトではない生き物。まさおは自らの子供と作る「子まさお国」の夢を見る。
何処かの国の独裁者の話のようでもあるし、孤立した全ての者へ歌っているようでもある。
フランケンシュタインの恋、なんてドラマも流行ってるようだが、ヒトならざる者はヒトに恋することは出来ても、ヒトと本当に愛を交わすことは出来ない。
何故ならば、まさおはまさおであり、ヒトではない。
ヒトにはヒトの世界があるが、その世界はヒトのものだからだ。

発達障害者は心が歪む、という話

ブログを始めていきなりこんな話題になるのはどうかと思うが、私自身が恐らくは、いや間違いなく「障害」を抱えた側の人間だからこそ感じることがある。

それは、「発達障害に生まれた人間は心が歪む」ということだ。
勿論、世の中には障害を抱えながらも必死に頑張っている人は沢山いるだろう。
しかし、しかしだ、そういう「頑張る障害者」には世間の目も温かく、スポットライトを浴びる機会に恵まれるだろうが、その陰にはどれ程の救われない人間がいるだろうか。

障害を持つ人間がそれを自覚させられる時、二つの道がある。
一つは否定され矯正される道であり、もう一つは否定されず当たり前のこととして受け入れる道だ。
前者の環境で育った者が得るのは「自己否定感」。それは成長するにつれ己の身を蝕んでゆく。
後者の環境で育った者は自己否定感こそ無いとしても、成長の過程で他者とのギャップに相対したときに「挫折感」を味わう。

人には発達段階というものがあり、そのステップを一つ一つ上がっていくことで社会的な存在として完成されていく。
しかし発達障害の人間はそのステップに躓く。
躓いても乗り越えればいいという声が聞こえるが、それが出来ないから障害者なのだ。

自分は駄目な人間だ!と自己嫌悪に陥ろうと、世間こそ間違ってる!と他者嫌悪に陥ろうと、発達障害者の抱える他者との溝は埋まらないし、ステップは上がれない。

読んだあなたは偏見に充ちた文章に思えるだろう。しかし当事者として言わせて貰うならば、己が醜い怪物に成っていく過程というのはこういうことなのだ。
私自身がこの「発達障害者は心が歪む」という主張の証明になっているのだ。

もう一つ、付け加えたい話がある。
私はテレビ番組等でこの問題が特集されるときに必ず感じる違和感がある。
それは「努力」という単語が対話の中に乱れ飛ぶことだ。
努力する障害者、努力しても届かないことへの周囲の理解、そんなのははっきり言ってレアケースだと私は考える。
人は他人の努力など知りようもなければ興味もない。そんなことにいちいち配慮していたらこの世の中は回らない。
あなたが頑張っているかどうかなんて誰にも関係無いのだ。

自己紹介

ブログを書くのが初めてなので
右も左も分からない。
とりあえず私がどうしてブログを書くに至ったのか、どういう人間なのか簡単に書いておこうと思う。

ブログを書くきっかけとなったのは早い話、今の手持ちの携帯がTwitter社から完全に凍結(新規登録も不可)されたからだ。
私はTwitterで毎日のように「殺したい」だの「死にたい」だの書いては他人に絡み、時にはDM、時には実際に会い、その度にトラブっては凍結されてを繰り返した。
色々あって携帯が変わっても同じことを繰り返し、冒頭の事態となった。

私は現在、親兄弟その他親戚など一切と関わりがない。
大学に進学するも中退し、以来フリーターとして職を転々としながら単身で暮らしてきた。
孤独を募らせネットに出会いを求め、様々な愚行を重ねた挙げ句、反社会組織に身をやつすなどしたが、結局そこからも逃げ、遂には住まいも身寄りも失った。
そして、幸か不幸か福祉に拾われ命を繋ぐことは出来たが、未だ闇の中にいる。

このブログはそんな人間のどうでもいい日常や心の澱を垂れ流す「現在進行形の遺書」として綴るつもりです。