発達障害者は心が歪む、という話

ブログを始めていきなりこんな話題になるのはどうかと思うが、私自身が恐らくは、いや間違いなく「障害」を抱えた側の人間だからこそ感じることがある。

それは、「発達障害に生まれた人間は心が歪む」ということだ。
勿論、世の中には障害を抱えながらも必死に頑張っている人は沢山いるだろう。
しかし、しかしだ、そういう「頑張る障害者」には世間の目も温かく、スポットライトを浴びる機会に恵まれるだろうが、その陰にはどれ程の救われない人間がいるだろうか。

障害を持つ人間がそれを自覚させられる時、二つの道がある。
一つは否定され矯正される道であり、もう一つは否定されず当たり前のこととして受け入れる道だ。
前者の環境で育った者が得るのは「自己否定感」。それは成長するにつれ己の身を蝕んでゆく。
後者の環境で育った者は自己否定感こそ無いとしても、成長の過程で他者とのギャップに相対したときに「挫折感」を味わう。

人には発達段階というものがあり、そのステップを一つ一つ上がっていくことで社会的な存在として完成されていく。
しかし発達障害の人間はそのステップに躓く。
躓いても乗り越えればいいという声が聞こえるが、それが出来ないから障害者なのだ。

自分は駄目な人間だ!と自己嫌悪に陥ろうと、世間こそ間違ってる!と他者嫌悪に陥ろうと、発達障害者の抱える他者との溝は埋まらないし、ステップは上がれない。

読んだあなたは偏見に充ちた文章に思えるだろう。しかし当事者として言わせて貰うならば、己が醜い怪物に成っていく過程というのはこういうことなのだ。
私自身がこの「発達障害者は心が歪む」という主張の証明になっているのだ。

もう一つ、付け加えたい話がある。
私はテレビ番組等でこの問題が特集されるときに必ず感じる違和感がある。
それは「努力」という単語が対話の中に乱れ飛ぶことだ。
努力する障害者、努力しても届かないことへの周囲の理解、そんなのははっきり言ってレアケースだと私は考える。
人は他人の努力など知りようもなければ興味もない。そんなことにいちいち配慮していたらこの世の中は回らない。
あなたが頑張っているかどうかなんて誰にも関係無いのだ。